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発見された旧軍の重巡「古鷹」 設計と建造で混乱、条約にも翻弄されたその紆余曲折 [ニュース]

旧海軍の重巡洋艦「古鷹」は、その傾斜した船体に見られるように、設計からして特徴的な艦といえるでしょう。特徴的すぎたゆえ、建造の現場では混乱をきたしたほどといいます。軍縮条約にも翻弄された、その紆余曲折をたどります。

海底の重巡「古鷹」発見される2019年5月5日(日)、アメリカの故ポール・アレン氏が設立した調査チームは、さる2月25日に南太平洋ソロモン諸島サボ島沖合の海底1400mで、旧日本海軍の重巡洋艦「古鷹」を発見したと発表しました。1926(大正15)年3月31日に竣工し、太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年12月8日には同型艦「加古」と準同型艦の「青葉」「衣笠」で第六戦隊を編成し、真珠湾攻撃と同時に実施されたグアム島作戦を皮切りに、ウエーク島、ラバウル島の攻略作戦支援、「珊瑚海海戦」などに参加した艦です。

「古鷹」は当初、偵察用軽巡洋艦として、高速、重武装、軽量という相反する要求性能を満足するため、海軍艦政本部の主任設計官、平賀 譲 造船大佐(当時)が設計に工夫を凝らしました。しかし「古鷹」が設計、起工してから活動した時期は、「巡洋艦」を定義する「ワシントン海軍軍縮条約」や「ロンドン海軍軍縮条約」が発効する時期とも重なり、設計時には軽巡洋艦でしたが、竣工してしばらくすると重巡洋艦ということになってしまいます。

 日本海軍の艦艇は戦闘力ばかり偏重され、軽い艦体に武装を過積載したとよく言われますが、当時の日本にはやむを得ない事情がありました。貧乏だったのです。太平洋で覇を競っていた相手は、圧倒的な国力差のあるアメリカ、イギリスです。艦艇の軽量化を追及したのは、ただ資源を節約して安く造ろうとしたことに尽きます。

省資源の画期的な設計も建造段階で台無しに

 1920(大正9)年の「八八艦隊計画」で、偵察任務用に基準排水量8000トン級、敵の偵察巡洋艦を追い払える14cm砲装備、水上偵察機が搭載できる航海性能に優れた軽巡洋艦が計画され、平賀 譲 造船大佐が、これを基準排水量7100トン級で要求仕様を満足させるという画期的な「省資源」提案をします。これが古鷹型です。見積もっていた8000トン級から約1割以上軽量化して資源を節約できるのです。海軍は平賀大佐の提案を受け入れます。

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 平賀大佐の設計した「古鷹」は、それまでの船の常識を覆すものでした。甲板が水平ではなかったのです。船の甲板は艦首の乾舷で統一されて水平になっているのが普通です。ところが「古鷹」を横から見ると、艦首から艦尾にかけての甲板の高さが段々と低くなっているのが分かります。艦首から艦尾にかけて必要な乾舷を計算して、それを満たすだけのギリギリの高さとしたために、艦尾に掛けて傾斜した形状になっていたのです。艦尾を低くしたぶん、軽量化でき「省資源」になります。

 しかし、これが造船所で混乱を引き起こします。これまで見たことの無い徹底した軽量構造に、造船現場の職人が不安を覚え、職人個人レベルの判断で元の設計図には無いような部材追加やリベット打ちが多く施されてしまいます。計画値では7100トン級となるはずが、竣工してみると約8000トンにまで増量してしまっていたのです。結局、平賀大佐の「省資源」設計の努力は台無しになってしまったのでした。

 建造工数も多くなり、艦内の床も傾斜して居住性も悪く、「古鷹」の乗組員からは坂道で生活しているようだと酷評されました。艦は乗組員にとっては「生活空間」でもあり、居住性は無視できない問題でした。

 ところが、これだけの増量にもかかわらず「古鷹」は要求性能を満たしていたので、海軍は受領します。基本設計の優秀さを示すことにもなるのですが、以後、建造される巡洋艦で設計より排水量が超過してもよいとする、悪い前例となってしまいます。

武装にも見える試行錯誤のあと

 武装は「ワシントン海軍軍縮条約(後述)」で認められた20cm砲を装備しますが、艦体が軽量構造のため連装砲塔ではなく、単装砲塔6基を艦橋前後の中心線上に並べる形になりました。砲弾を弾庫から運搬するには揚弾機が使われますが、これも軽量化のため動力式ではなく手動式となり、砲塔内の即応弾3発を撃ってしまうと弾薬供給は乗組員の人力頼りとなり、給弾に時間が掛かって発射速度が低下するという問題がありました。

 魚雷は設計当初、平賀大佐は搭載しないつもりでした。というのも、当時の八年式61cm魚雷は強度不足で、上甲板から発射すると着水時の衝撃で破損してしまうからです。ところが軍令部(旧日本海軍の作戦指揮にあたった中央統帥機関)は魚雷を、巡洋艦が戦艦に対抗するには不可欠な兵器と見ていたため、搭載を強く要求しました。海面からの高さが低くなる艦内中甲板に固定式の連装魚雷発射管を片舷6基(計12基)搭載するという形になりましたが、この方式は艦内の閉鎖空間に事故や被弾時に誘爆する危険のある魚雷を収めるというリスクのあるものでした。

 水上機も、搭載や離発着の方法が発展途上で、運用には手間が掛かりました。竣工時、飛行機を射出するカタパルトは開発中で、発進には「ハインケル式滑走台」という、滑り台のような装置からから滑り落とす方法が採られています。また飛行機を留置した滑走台は4番砲塔の上を覆うように配置されており、砲撃の衝撃で飛行機が破損してしまうこともありました。

軍縮条約で中途半端な重巡洋艦に

 起工直後の1922(大正11)年に批准された「ワシントン海軍軍縮条約」で、巡洋艦の定義は、基準排水量1万トン以下、主砲口径12.7cmから20.3cmまで、とされます。上限1万トンと定められた条約下では、古鷹型の8000トン級というのは中途半端なものだったことは否めません。ゆえに古鷹型は、1個戦隊を組むのに必要な最小限4隻(「古鷹」「加古」、準同型の青葉型重巡洋艦「青葉」および「衣笠」)が建造されたのみで、それ以降、建造されるのは1万トン級の重巡洋艦になります。

 さらに1930(昭和5)年10月に批准された「ロンドン海軍軍縮条約」では、主砲口径15.5cmから20.3cmをカテゴリAと規定し、これを日本では「重巡洋艦」と称しましたので、「古鷹」は重巡洋艦となります。ちなみに主砲口径が13cmから15.5cmはカテゴリB、日本では「軽巡洋艦」と称するようになります。

 1万トン級重巡洋艦が主流になってくると、「古鷹」も旧式化は否めなくなり、1937(昭和12)年から1939(昭和14)年にかけ大規模な改修を実施します。武装は青葉型とほぼ同じ20.3cm連装砲塔3基6門とし、魚雷発射管を艦内から上甲板に移設し61cm4連装魚雷発射管2基8門となり、九三式魚雷(秘密兵器の「酸素魚雷」)が使用できるようになり、排水量も8700トンに増加し外見が一新しました。

 ちなみに設計者の平賀 譲 造船少将(大佐から昇進)は、砲塔の更新は艦のバランスが失われると大反対したため、現場部隊の幹部たちが平賀少将を海外視察に「追い出して」しまい、その隙に改修を実施したという、当時の海軍内の力関係をうかがい知るようなエピソードもあります。

 太平洋戦争が勃発すると、「古鷹」は冒頭で触れたように、空母を中心とする機動部隊などで活動しましたが、ガダルカナル島攻防戦のなか、1942(昭和17)年10月11日に生起した「サボ島沖海戦」でアメリカ巡洋艦隊と夜戦となり、砲撃戦の末、翌12日の0時28分に戦没しました。 スポンサーリンク

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